西暦 | 年代 | 年齢 | 事 項 |
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1539 | 天文 8 | 1 | 駿河国富士郡小泉郷、今川家の樋代官13代目・植松素清の長男として生まれる。 |
1568 | 永禄11 | 30 | 今川氏滅亡、植松父子ともに武田氏に編入される。 |
1582 | 天正10 | 44 | 次大夫は徳川軍・井伊直政隊の下に加わり、3月駿河富士川から甲州への武田攻めで活躍、 軍功をあげ家康に認められ領地750石と小泉姓を賜る。 6月2日、本能寺の変 |
1589 | 天正17 | 51 | 多摩川が大洪水を起こし、上丸子村と世田谷領沼部村とが境界論争をおこす「虎の印判状」 |
1590 | 天正18 | 52 | 小田原城落城、天下統一。 8月家康に従い川崎入り。多摩川両岸開発奉行を内命される。 前年に続いて6月に多摩川が大洪水を起こし、南流路が大きく北に移動した。 |
1591 | 天正19 ~ 文禄 5 | 53 | 次大夫は用水奉行任命以来(1590年~1596年)7年間、腹心の水利土木技師達と共に 多摩川本流と支流、及び六郷領・世田谷領・川﨑領・稲毛領をつぶさに視察して、用水開削 の構想を練った。(天正17・18年の洪水による旧流路の再利用も考慮する) |
1596 | 慶長 1 | 58 | 充分な事前調査に基づいた「用水開削計画」を徳川家康に進言して計画が公認される。 |
1597 | 慶長 2 | 59 | 2月3日荏原郡安方村(大田区東矢口)の名主・兵庫宅に六郷領の名主を招集し、用水開削
を説明して測量の実施を告げた。六郷領より測量開始6月20日六郷用水で最大難所、嶺村の
測量で亀甲山(かめのこやま・東急東横線、鉄橋の上流)からの取水は不可能と発表。 6月下旬、富士信仰の浅間神社の祭神であるコノハナノサクヤヒメ(木花之咲耶姫命)から 「この地からの取水は悪所なり」とのお告げによる、という大芝居を演出して亀甲山取水 案を、11Km上流の和泉取水案に変更することを世田谷藩と世間を納得させる。 この頃、次大夫は小杉に正式な陣屋を設け測量を指揮する。 |
1598 | 慶長 3 | 60 | 12月5日をもって左右両岸の測量、杭打ち完了。 豊臣秀吉死亡。 |
1599 | 慶長 4 | 61 | 1月5日六郷領道塚村(新蒲田)南掘から工事開始。川﨑領と3ヶ月ごと交互に工事は進展。 |
1600 | 慶長 5 | 62 | 関が原の戦い。 六郷用水最大の難工事と言われた「嶺村の切通し」で「女掘」を発案。 川﨑領は順調に進む。六郷の鵜の木~嶺村切通し~下沼部までの難工事は堅い岩盤を7m も掘り下げる。1日6.8m、2.3kmを切通すのに2年間、338日を要した。 |
1601 | 慶長 6 | 63 | 小泉次大夫は稲毛領、川﨑領、六郷領、をはじめ神奈川領、子安領、小机領の代官に任命
される。これをもって用水工事の差配裁量の権限が広がった。(世田谷領を除く) 9月23日、六郷用水最大の難工事を終え下沼部村境に達する。 |
1602 | 慶長 7 | 64 | 川﨑領の開削完了。世田谷領は難所を越え、下沼部~上沼部を開削。 |
1603 | 慶長 8 | 65 | 江戸幕府開く。家康征夷大将軍となる。 世田谷領は等々力村~小山村を経て上野毛村まで。 |
1604 | 慶長 9 | 66 | 世田谷領は上野毛村~12月に喜多見村境まで。稲毛領の工事は快調に進展。 |
1605 | 慶長10 | 67 | 正月9日家康は次大夫に「人夫役黒印状」を与え、私領、寺社領からも人夫動員が可能に なった。喜多見村から和泉村取水口までは立川段丘を開削する難工事で、慶長9年10月 から14年4月までかかった。当時、喜多見村は喜多見氏領で領主の協力が必要であった。 小泉次大夫は和泉村にも陣屋を設け、喜多見村~和泉村の難工事を指揮した。 |
1606 | 慶長11 | 68 | 六郷用水は大蔵村~和泉村を開削。稲毛領は堰・宿河原に達し、仮取水口設置工事に入る。 |
1607 | 慶長12 | 69 | 徳川家康66歳で駿府城に移る。 堰・宿河原仮取水口から取水を始める。 |
1608 | 慶長13 | 70 | 用水開削は大詰めを向かえる。六郷用水は和泉村取水口。二ヶ領用水は中野島取水口へ。 徳川秀忠、小杉村に小杉御殿を新築。大御所を迎え鷹狩りの際、二ヶ領用水開削を視察。 |
1609 | 慶長14 | 71 | 用水開削は大詰めを向かえる。六郷用水は和泉村取水口。二ヶ領用水は中野島取水口へ。 徳川秀忠、小杉村に小杉御殿を新築。 大御所を迎え鷹狩りの際、二ヶ領用水開削を視察。 |
1610 | 慶長15 | 72 | 六郷・二ヶ領ともに本流から村々への分水小堀の開削に入る。また本流の浚渫作業。 |
1611 | 慶長16 | 73 | 六郷用水・二ヶ領用水は2月28日に竣工する。六郷領35ヶ村・二ヶ領60ヶ村を灌漑する。 徳川家康はこの功績を賞して、本領のほか本田・新田の1割が新たに支給された。 |
1612 | 慶長17 | 74 | 代官職と領地を、すべて嫡子・吉明に譲り、小隠居。 |
1615 | 元和 1 | 77 | 大阪夏の陣、豊臣氏滅亡。 嫡子吉明大阪夏の陣参戦37歳で病死。次大夫は代官職に復帰。 |
1616 | 元和 2 | 78 | 4月17日、徳川家康死去、享年75歳。 次大夫は剃髪入道して宗可と号す。 |
1619 | 元和 5 | 81 | 代官職を養子・吉勝に譲り、川﨑領砂子の妙遠寺に隠居する。 |
1623 | 元和 9 | 85 | 12月8日、小泉次大夫死去、享年85歳。妙遠寺に葬られる。 |
その後 |
小泉次大夫没後、代官職は養子吉勝の代で御家断絶。小泉家の水利事業も絶える。 小泉郷の植松家は明治時代まで樋代官を務め、その長屋門・住居が富士市立博物館で展示。 |