川崎・二ヶ領用水   
   竣工(1611)400年

二ヶ領用水開削者  小泉次大夫物語

http://kawasaki-guide.jp/nikaryou/koizumi/


小泉次大夫年譜
工事作業日程






金 子 忠 司


neko7571@jcom.home.ne.jp

二ヶ領用水百景 散策散歩ガイド

   

  2011年3月に竣工400年を迎える「二ヶ領用水」を開削した小泉次大夫の偉業を物語るには、歴史的資料が欠けているために不透明な部分が多い。二ヶ領用水と六郷用水は小泉次大夫によって同時進行で開発されたのに、今では分離独立して一人歩きしている。全貌を物語るには六郷用水を含めて相対的かつ総合的に考察しながら、フィクションで物語を展開する。

これから展開する「小泉次大夫物語」はすべて推定に基づく状況証拠である。 従って歴史的な事実を検証する資料はありません。 ただし小泉次大夫自身の身になって、時系列に行動と履歴をたどってみました。
定説部分は太いゴチック文字   推定部分は細い文字で表記します。

  徳川家康の関東入国

  小田原城の北条氏を攻めていた天正18年(1590)5月、秀吉と家康の間では、三河・遠州・駿河・甲斐・信濃の150万石から、関東6国・240万石へ移封が内定していた。将来を見通す見識を抱いていた家康は、本拠地は江戸城と決めて、ただちに江戸周辺へ三組の隠密を派遣して地理・民情などの現地調査を指示した。

  7月5日小田原城が落ちて、北条氏直が高野山へ追放された翌日7月13日付で、秀吉より後北条氏の旧領であった関八州を与えられた家康は、はやばやと8月朔日江戸城へ入城した。
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  家康が最初に手がけたことは・・・
  1. 徳川家直轄地・天領の確保と家臣団の配置、寺社領の知行割をした。
  2. 江戸湾に注ぐ数本の河川から、上水道を引き飲料水の確保。農業の生産性を向上させるための治水・灌漑事業を推進して、農地の拡大をはかる。
  3. 海辺を埋め立てて縦横に掘割を通し城下町の整備と、港・道路等交通政策の確立。

  特に玉川(多摩川)両岸の開発は急務でした。関東一の急流は大雨が続くとたちまち氾濫を起こし、農民は洪水と渇水に絶えず悩まされていた。家康は稲毛、川崎、六郷の三領を徳川家直轄の天領として農地開発を図った。


     関東入国にあたって家康はその大役を、小泉次大夫の用水土木に関する技術的素養を買って、一刻も早く用水開削計画を練るように密かに内命を与えた。

  二人の八朔祈願  【用水開発・発足の誓い】

  「天正日記」によれば、徳川家康は江戸入城のルートを「・・・神奈川~鶴見~市場~小向から玉川を渡って、目黒の二本榎を過ぎ、増上寺で夕食をすませて江戸城へ入りました・・・」とある。
徳川家康が初めて公式に江戸へ入城する祝福すべき日を「八朔」と称した。

  「八朔」を武家の祝日にした裏には家康の大いなる野望があった。出自ゆえ公家の最高位関白にしかなり得なかった秀吉に対し、新田源氏の血統を引く徳川家康が時機を得て、源氏由来の関東に戻り、励めばやがて「征夷大将軍」の栄誉を掴み取ると、密かに武家の総大将を目指した。よって「八朔」は正月に次ぐ重要な武家の祝日とした。
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  天正18年8月朔日の早朝、小泉次大夫は玉川・小向の渡しがある堤防に立ち、意気揚々と江戸城へ向う徳川家康の一行を見送っていた。渡し船が対岸に着いたのを見極めてから、次大夫は自分の「八朔」を祈願するために、8年前の武田攻めで膝に槍傷を蒙った片足をびっこを引きつつ、3キロほど上流にある丸子・山王の日枝神社に向った。   


丸子・山王 日枝神社

  旧暦8月朔日は早稲の穂が実るので、昔から初穂を報恩のしるしとして贈る風習がある。次大夫は白装束姿で心身を塩で清め初穂を神前に奉納して、祝い酒を酌み交わし、用水工事の成功と安全を祈願した。全く未知の土地を相手に挑む困難な工事に対し、不撓不屈の精神で邁進する誓いを立てた。次大夫チームには片腕の治水技術者・石川吉久以下数名である。日枝神社は丸子荘の鎮守社で、川崎市の数ある神社の中で専属の神職家が尊属したのは、日枝神社と川崎区の稲毛神社、宮前区の白幡八幡大社の三社のみである。
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  日枝神社には小田原城主・北条氏直が印した「虎の印判状」という古文書が所蔵されている。天正17年このあたりで玉川が氾濫し、川筋が変わり上丸子郷の川沿いの田畑が流されことが原因で、対岸の世田谷領沼部郷との間で起きた、土地の境界争いを裁いたものである。小田原の役人が裁き、上丸子郷に軍配があがったのだ。文書は天正18年3月16日(庚寅)の日付の上に押された朱印状に、虎の姿があるのでそう呼ばれた。この日からわずか半月後に秀吉に攻め込まれ、7月5日北条氏直は小田原城を出て秀吉に降伏した。
まことに人の運命は一寸先が闇である。


樋代官植松家住宅
  建築後百数十年、富士市立博物館所蔵
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Q 1一介の駿河の新参中年者(44歳)、植松次大夫は如何にして家康に認められたか。 そして家康は、どうして多くの家臣のなかから小泉次大夫を選び、二ヶ領用水・六郷用水の普請奉行に任命したのか?

  もうひとつの400年 【植松家伝承の治水技法】

  小泉次大夫の故郷、駿河国小泉郷は雄大な富士山南側の裾野にある。南に下れば田子の浦、北に向えば甲斐との国境である。地勢は山頂から急傾斜で南下し、しだいに平原となる。標高差は日本一である。この地は昔から涸れ沢が多く水不足で困っていた。逆に雪解けの季節には氾濫の害が多く、昔から治水に関心の高い地域であった。


二本樋

  初代植松信清が甲斐国小笠原(山梨県南アルプス市)から小泉郷に移り住んだ。その後、熱原に移り(富士市厚原)文治2年(1186)植松家二代目、兵庫助信継が潤井川(うるいがわ)から水を引き、幅2~5m・長さ6Kmの鷹岡・伝法用水路を造った。用水の途中には、凡夫川の深い沢がある。その上を渡るように架けられた長さ50mもある二本の木製樋は「二本樋」(にほんどよ)という。南側の一本は厚原へ、北側の一本は伝法へ送水する。(現在は鉄筋コンクリート製)
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  それ以来、代々400年間、この用水を管理・運営してきた樋(とよ)代官・今川家家臣、13代目植松泰清の長男として、次大夫は天文8年(1539)に生まれた。父泰清は荒廃していた水路や樋などを改修した中興の祖であった。幼少時より治水・土木技術を学び、富士山に懸かる雲を観察して、明日の天気を予想し生活のなかで役立ててきた。永禄11年(1568)30歳の時、今川家が滅亡した後は武田家に編入され、引き続き樋役を務めてきた。鷹岡・伝法用水路は常に掘割や掛樋(かけひ)などの補修・管理が必要不可であった。

  次大夫が陽の目を見るのは44歳の時、天正10年3月織田・徳川連合による武田攻略であった。織田軍は信濃口から、徳川軍は富士川を遡って武田勝頼軍を攻めた。甲斐は山に囲まれた天下の険である。地元在住の次大夫は弟の清安とともに徳川軍・井伊直政の傘下に加わり、先頭にたって富士山麓の地理を説明し道案内を務めた。また戦闘でも植松家再興のため獅子奮迅の働きで、いくつもの首級を挙げる手柄をたてたが、自身も7ヵ所に傷を受け片足の膝に槍傷を負い歩行が不自由になった。お陰で家康に認められ750石の知行と、小泉姓を賜って家臣になった。

  同年4月18日父・泰清病死、植松家の家督を弟・泰清に譲る。

  同年5月、戦は勝ち凱旋の帰路、家康に願い出て小泉郷に立ち寄って頂き、鷹岡・伝法用水の実態と見せどころの「二本樋」等を案内した。植松家400年にわたって培われてきた、先祖伝来の水利・土木技術を印象づけた。鷹岡伝法用水は裾野の斜面に対して北西から東南へ斜めに横断するように巧みに造られている。
戦功よりもこの日の植松家の業績を披露したことが次大夫の晩年の運命を大きく切り開いた。

  三ヵ月後の6月2日夜、「本能寺の変」が起き、やがて天下は秀吉のものになる。

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小田原城 (小田原市HPより)

  家康の決断 【多摩川両岸の用水普請奉行を小泉次大夫に決める】

  天正18年(1590)3月1日、秀吉軍本隊・5万は京都を出陣。4月に一夜城を築いて小田原城を包囲した。主力の徳川軍・10万は城の東側・酒匂川河口左岸に布陣した。当然のこと小泉次大夫も参陣した。100日に及ぶ包囲戦も7月5日、北条氏直は降伏し城を明け渡した。

  北条氏直の正妻は家康の次女・督姫(すけひめ)である。その娘婿の縁で北条家が弘治1年(1555)と永禄2年(1559)武蔵国を集中的に調べた六郷・世田谷領の検地帳を素早く確保して、関東入国後の知行割の資料に役立てた。
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  後にその検地台帳の中から六郷領・世田谷領の控えを次大夫に渡した。ただし橘樹郡(稲毛領、川崎領)の検地は行われず、当時は武田氏の勢力が強く北条の命令が届かなかった。ともかく六郷・世田谷領だけでも詳しい検地情報が入手できた。

  終盤戦、梅雨の大雨で酒匂川の水位が上がり、徳川軍陣中へ洪水の危機がせまった。昔から酒匂川は「暴れ川にして水勢甚だ強く、いかなる堤を築いても一夜のうちに押し流す、防ぎ難き所なり」という。これを最小限の被害に止めたのが、次大夫の治水経験と奮闘努力であった。家康が玉川両岸の用水開発を任せるのはこの男しかないと決断した事件である。

  この大雨は同時に玉川右岸の稲毛領に大洪水を起し、多摩丘陵の淵を流れていた川筋を北へ移動(ほぼ現在の位置)させるという被害を受けた。

  小田原攻めの終盤6月26日、次大夫は家康本陣に呼ばれて非公式に稲毛領、川崎領、六郷領の用水開削計画を具体的に作成するよう、隠密裏での事前調査を任命された。家康は次大夫の技術的才能はもとより、その律儀で真面目な人柄を熟知していた。家康は念を押して「小泉よこの用水は完成することが第一義である。最上の策をたてよ、必ずそちの策を支持するから励めよ」と約束した。そして正式に工事が決まるまでは、徳川家中及び臣下の旗本は勿論、対象地域の村々の名主・村役人をも含めて、隠密裏での内見作業を命じたのである。
  
  6月26日の天正日記には「駿河者江戸へお越しの候は召し連れてくれと申して、七人参る」とある。次大夫は石川吉久他の身内で固めた、少数精鋭の技術達者に限ったのである。家康は天正日記を書いた内藤清成(後の関東総奉行)には真実を語らず、ただの駿河者とごまかしたのだ。この日の記録は「駿河者」のみで、家康が重要な面接であった事を物語る。
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  これは次大夫の直属上司は三河譜代の旗本、側近筆頭の代官頭・伊奈熊蔵忠次がいた。甲州流治水家(利根川・荒川の付け替えを普請)有能だが「せっかち」で有名な男である。せっかち男のいらぬ口出しや雑音が入らない為の家康の慎重なる配慮であった。

Q 2 家康は何故に家臣を含め、地域住民までの「隠密調査」を命じたのか?

  用水対象地域は直前までの90年間・後北条氏5代にわたって治められてきた。当時まで関東は小田原が政治の中心であった。北条氏は一郷を征服すると、そこの土豪が所有していた土地をそのまま認め、北条の家人として温情をほどこし、土地の特色を生かした民政を行ってきた。

  占領地ゆえ家康は、まず民心の安定と混乱の防止に努めた。民政の法は全て後北条氏の旧制を守り、村人の生命を保証した。用水開発は善政とはいえ、目立った調査や測量を行えば、何ごとが始まるのか?・・・と騒ぎが広がり、計画の進行を妨げると考えたからである。

  稲毛領・川崎領・六郷領は徳川直轄の天領であるから天下御免、自由に設計できる。しかし世田谷領は徳川四天王の一人・譜代大名:井伊直政の私領である。六郷用水の取水口・幹線路は世田谷領を借りる可能性が大きい。計画が内定するまでは内密にしておきたい。

  徳川政権が安定する慶長元年までの7年間は内密にしたい。(慶長3年8月、秀吉死亡)。同年小泉次大夫が正式に用水開発を家康に進言して、初めて公式政策として認可された。

Q 3 びっこを引きながら、7年間の事前調査を行う。  次大夫 52歳
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  小泉次大夫は天正18年家康に随伴して川崎に移住してから、慶長2年(1597)の用水開削に着手するまでの7年間の行動はほとんど知られていない。空白の7年間、彼は何をしていたか?

  この空白の7年間について「多摩川誌」には、家康の関東移封から間もなく、次大夫は家康の命令で川崎の何処かに移り住み、多摩川の治水工事に従事していたと考えられ、治水普請奉行か堤防奉行というような役職につき、用水施設の前提となる多摩川の水防、改修等の工事に専念していたのではなかろうか、と書かれている。
(丸子川と六郷用水より http://tamagawa-kisui.jp/ref/ref8/ref-8.html

  また「新編武蔵国風土記稿」に橘樹郡諏訪河原村の項に「しばしば村内水災ありしかば、堀を打ちて水道を通じ、是が為に大に力を尽せり、その頃御代官小泉次大夫も溝洫のこと務めしかば、かの指揮に従ひ、近村の人夫などかりたて、すみやかに事なれり、その後稲毛川崎の用水を開かれし時、かの次大夫奉行せり」とある。  (故郷と玉川(農民史) 113頁


  六郷用水・二ヶ領用水の開削という大事業を行う時の通常的な「作業工程」は・・・

 計 画
 → 事前調査
 → 開発計画承認
 → 測 量
 → 開削工事
 

  調査の拠点を小杉陣屋に置く
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  次大夫は小杉・西明寺前の農家を借り受けて調査拠点の陣屋とした。この地は稲毛領・川崎領・六郷領(世田谷領)の中心地であり、かつ交通の要所である。当時陣屋裏(北)を玉川が流れ、水運により江戸湾からの荷駄輸送、上流から材木の筏流しが出来た。南表には江戸と相模を結ぶ中原往還が通じ、丸子の渡しから六郷領へ渡れる。
中原往還を少し西へ行けば、八王子道と交差する小杉十字路がある。八王子道を南東に行けば川崎宿、北西に行けば菅(多摩区)府中に至る。

  家康は慶長9年(1604)に相模国中原(平塚市)に中原御殿を建て、休養と視察の基地とした。この時から江戸と中原を往復する道を中原往還と呼ぶようになった。慶長13年に徳川秀忠が小杉御殿を建て、鷹狩り好きの家康の宿舎や、参勤交代の西国大名達の本陣になった。
  (東海道ができるまで中原往還が天下の大道であった)

  江戸初期の小杉・中原界隈

  小杉十字路の西角にある泉澤寺が開く楽市「夏の泉澤寺のお施餓鬼」の縁日は毎年8月25日に盛大に開かれた。門前の街道に沿って家が並び、市が開かれた。百姓は近郷近在から集まり大勢の人出で賑わった。泉澤寺は戦国時代の豪族・吉良頼康の菩提寺(世田谷・烏山)が焼失したため、室町末期(1550年)に、地味豊かな上小田中に食指をのばして移転した。同時に殿様は税を免除して居住誘致を促進し、場所代無料の門前市を開いてこの地の繁栄をはかった。北条氏も定期市を認め、多摩川流域の物資が集結して活気を呈した。
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泉澤寺

  泉澤寺から中原往還を西へ2Km行けば野川台地がある。ここには川崎最古の名刹・影向寺がある。天平12年(740)に創建された当時は、赤や青に塗った三重塔が聳え、薬師三尊を祀った金堂・講堂の大伽藍が建っていた。寺の敷地から見ると奈良・薬師寺に相当する規模である。政治・学問・文化・宗教などの中心地であった。縄文時代の子母口貝塚や古墳があり、8世紀初頭の遺跡まで存在している。このあたりは古くから開発され、中世には稲毛荘の中核を成していた。
  稲毛領の名は、中世の稲毛庄に由来する。最初に開けた土地は、上小田中、新城、小杉中原往還の南に下耕地・中耕地・上耕地と呼ばれる水田があった。水源は玉川と平瀬川を利用した、中世条里と思はれる東西南北の方位に合致した田園が存在した。まさに「稲毛」といわれる水田耕作が展開していたと推測される。徳川家光が小杉御殿を設置したのも、この地域の生産性と経済性の良さによるものである。この地理的条件が後の堰・宿河原取水口に影響を与えることになる。


仕事始めは、まず玉川を観察・研究。
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  多摩川は青梅市(標高180m)から稲毛領の菅(標高30m)まで約40Km間の川床は1Kmにつき平均4mの傾斜で流れは速い。中野島25m・登戸20m・宿河原15m・溝の口10mと下るこの間9Kmは、1Km平均2m。あと河口まで18Kmは1Kmにつき50cmの緩やかな傾斜になる。

  当時の玉川下流域は度重なる洪水により流路が定まらず、灌漑用水を取水しようとしても困難だった。玉川沿いに平坦地が広がる右岸の二ヶ領側は、地形的にも取水口を造りやすいが、逆に洪水で壊れやすいという、「両刃の剣」の弱点を持っていた。
次大夫はこのような流れの変化を観察し、洪水の記録や、言い伝えを集約して取水口と幹線水路を検討したのであろう。

  大いなる田舎を毎日丹念に視察、

  52歳になった次大夫は、茶筅髷に菅笠を冠り、白装束で金剛杖を突きびっこを引きながら歩いた。遍路姿の次大夫に対して、村の名主や村役人や村人は親切に聴き取り調査に応じてくれた。遍路は何処から来て、何処へ行こうと自由である。これ以上の変身術はない。

  次大夫自身、乗馬は得意であるが、馬に乗れば目立つし、上から見下ろすお代官様の権威丸出しでは占領軍である。遍路姿はまさに隠密行動にぴったり。そして手下の若者に指示を与えて、歩測調査をして絵図面に距離、方角を描き入れる。こうして用水開発にあたり、全ての基礎になる【細密な地図づくり】から始まった。

  まずは野川・影向寺の高台に登って全景を俯瞰した。親の代から「知らない土地へ訪ねて行ったら必ず高い所からその土地を観察せよ。そして目を引いたものがあったら、そこへ必ず訪れて見ることだ」との教えに従った。眼下に新城、小田中、小杉、宮内、左手に二子、溝口、久地、右手には、中丸子、上平間、鹿島田の村々が見える。玉川の対岸には矢口村、嶺村から亀甲山、下沼部村に至る丘陵地が一望千里で見渡せた。真ん中を滔々と流れる玉川の水。あの水を如何に治めるか、小泉次大夫の20年に及ぶ長い戦いが始まった。
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  玉川は南流路 ⇒ 北流路へと移動した。

  天正17年の大洪水は、溝の口あたりから下流域が北東側に流れが変わった。翌18年、再度の大氾濫は上流の矢野口・菅あたりから溝の口あたりまでが大きく北に(ほぼ現在の流路)変えた。幸運にも次大夫が現地調査に入る直前の災害であった。用水の工事中に大洪水に出会ったら一巻の終りである。次大夫に強運があったのか、神仏のお陰なのか。お陰と言えば二ヶ領用水の中野島取水口~久地分量樋に至る6.8Kmは、南流路跡を利用したのである。

  江戸初期の玉川沿岸の村々は、5軒~10軒ばかりの貧しい村がちらほら点在していた。みすぼらしい家の周りにわずかばかりの畑があり、麦や稗・粟・大豆などをつくっていた。玉川両岸の丘陵に深く刻み込まれた幾つかの谷戸から湧き出す豊かな水を利用して米が作られていた。目の前に滔々と流れる玉川があっても、金と労力のない小領主の力では農業用水を得ることは不可能であった。


  次大夫は地図を作りながら、小河川や池・沼と荒れ地等を歩いて観察した。観察の基本は「歩く」「見る」「聞く」の三原則である。「歩く」と全身で高低差を感じる。村人の暮らしや、農作業の功罪、土地の特徴が浮き出てくる。「見る」と地勢、水勢、樹木、作物、草木等の姿形色が土地の特徴を教えてくれる。「聞く」と多摩川の洪水の歴史、苦労話、孫子達への夢、不平不満から、村人の潜在的な欲求が見えてくる。

  七人の用水隠密は三組に分かれて・・・
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  先に家康に面謁を得た7人は、頭の小泉次大夫、石川吉久、中野某とその小者である。
①組は次大夫が全体を統括し、地図作者兼方位測量係と歩測者の3名。②組目は一番弟子・石川吉久(治水土木工事専門家)とその助手の2名。③組目の中野某は高低差測量担当と時間当たりの水量計算の2名。この3組が目立たぬように地域に分散して調査した。毎晩陣屋に集まって会議を開き用水地図を作成した。

  そして先ずは用水の大動脈となる幹線水路のルートを何処に設計するかを検討。次いで分水掘を決める。先ずは幹線水路を選択・設定してゆく。現存する小堀、枝掘は優先的に活用して地図上に記入。水平器は弘法大師が唐から持ち帰った高野山の秘伝「紀の川式・準縄(みずばかり)」と「甲州流準縄」を植松家が改良した道具を使用した。

  孟宗竹の樋に水を注いで水平を求める、水面が常に水平である原理を発見し、樋代官の長い歳月をかけて磨き上げた道具。これは植松家一子相伝の秘具である。

7年かけて事前調査した「まとめ」  慶長元年・次大夫58歳
  1. 六郷領の南北引分より下流地域の地形は、標高5mから海に向って平坦に近い緩やかな傾斜のデルタ地帯。開削工事はなんら問題がない。問題は嶺村から亀甲山までの切通し区間である。10m前後の崖地が迫っており、開削する地盤に問題がある。

  2. 川崎領は六郷領と同様なデルタ地帯で平坦地が広がる。鹿嶋田から幹線を二股にして、大師掘と町田掘に分け、更に2本の幹線から数本に分割して全体に行き渡らす。工事上の問題点はない。
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  3. 稲毛領の地形は西端・上流菅地区の標高が30m⇒下平間が5mで適当な傾斜がある。地形地盤上の問題は殆んど無い。天正18年の洪水跡の旧河筋跡を利用して幹線とする。
    中程の久地あたりから分水を図る。川崎領を含むので灌漑面積が広く必要水量も多い、堰村より上流なら何処からでも取水できる。何処から取水するかが要点である。


  4. 問題は六郷用水の取水口の設定である。計画時の想定地は世田谷領を1.5Kmほど入った亀甲山付近である。水位は海抜0mで、想定する用水堀の水位から、玉川の水面までは7~8mも高度差がある。一目瞭然で不可能と判断した。


    亀甲山と多摩川との段差
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  5. もっと上流から取水するしかない。次大夫が見当をつけた場所は、11Km上流の和泉村(狛江市)である。ここなら高度差(20m)も充分あり地盤も硬い。 世田谷領の端から端までを縦断するが、領内には水を一滴も与えない基本方針である。
    用水は天領・六郷領のためにのみに造るのである。世田谷領(井伊家)のことは全く考慮していないのが問題である。正式決定するには政治力が必要である。

  6. 六郷領・嶺村から世田谷領・上沼部村へ続く台地の切り通し掘削工事は、硬い岩盤を深く掘下げるため難工事が予測される。綿密な地盤調査が必要である。
  7. 次大夫は上記・事前調査の「経過と開削工事の予測・難点等」を、家康宛に文書で定期的に報告していた。従って六郷用水取水口の重要案件は事前に承諾を得ていたと思われる。
    また毎年一度、直接拝謁を許され絵図を開いて説明をする機会を得ていた。同席したのは用水土木工事に見識のある伊奈忠次、大久保長安等の代官頭であった。
  江戸初期の関八州全ての土地所有権は徳川氏のものである。自分の代わりに旗本・寺社に預け支配させているのだから、基本的権利は徳川氏にある。しかし譜代大名最高の12万石、日の出の勢い四天王の一人・井伊直政領ゆえ、慎重にしかるべき筋道を通す配慮が必要であった。井伊家が納得するような道理が必要である。それをどうするか? 次大夫に与えられた難問である。
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(多摩川縦断面図  国土交通省京浜河川事務所:平成20年12月)

慶長元年 開削計画が公式承認される  次大夫58歳

  小泉次大夫を棟梁とする隠密調査団は、7年に及ぶ詳細な調査に基づいた用水の「測量・開削計画案」を作成した。それを家康はじめ代官頭の伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱に対して提案して、家康から公式な承認を得る。
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    【定説】
  1.  慶長元年、小泉次大夫は稲毛領内に視察に来た家康に、玉川両岸の稲毛領・川崎領・六郷領に田地開拓のため、用水掘の開削を進言し、直ちに計画を認められた。
  2. 慶長2年2月、六郷領より【測量】に着手。二ヶ領側と交互に進め慶長3年12月で終了。慶長4年正月から幹線掘の【開削工事】開始。両岸を3ヶ月ごと交互に工事を進め、慶長16年3月六郷用水・二ヶ領用水竣工。着工から竣工まで14年間を要した。
  3. 「新用水掘之事」(六郷領荻中村・名主権兵衛が書いた用水開削記録を基に後日編集した書)では六郷側のみ詳細な記述があるが、二ヶ領側は日付のみで中身は空白になっている。
  4. 「稲毛川崎二ヶ領用水事績」山田蔵太郎著において記述されたものが定説化された。上記史料は宝暦年間(用水竣工の約150年後に編集(作者不明)に記述されたものである。
慶長2年2月 六郷領から測量開始  次大夫 59歳

  「新用水掘定之事」によれば、六郷用水と二ヶ領用水の工事は慶長2年(1597)から始まった。2月1日に六郷領安方村の名主宅に次大夫が宿泊。3日に領内の名主、年寄の2名づつを召集して、六郷用水を掘る必要性と、先行する測量計画を説明。翌4日朝8時から開始、毎日該当する村の名主、年寄の2名づつを案内させ、自ら先頭にたって測量の指揮をとった。測量は六郷側9工区、二ヶ領側9工区に分けられ、六郷側は1工区平均26日(世田谷領内は幹線のみで分水の必要が無い)二ヶ領側は平均42日の割合で交互に平行して進められた。
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  六郷側(35ヶ村)は南掘の中間点の道塚村から、北掘も中間点の堤方村から上流へ向って測量が始められ、2月20日の鵜ノ木村で終了。2月21日~4月9日まで川崎領の測量に移る。六郷側には村名、名主、掘の寸法等が記述されているが、二ヶ領側には村名・名主など明細の記述がない。このように左岸・右岸を交互に測量・杭打ちを進め、慶長3年12月5日を以て測量を終える。

Q 4 木花之咲耶姫命(このはなさくやひめ) 御告段の一幕 
これこそ「嘘も方便」 目的のために富士之女神を利用した。
 
  測量が始まって5ヶ月後の6月20日、次大夫は第3区の測量のため世田谷領下沼部村の名主伝左衛門宅を訪れる。夕刻玉川の辺にある村の鎮守・浅間神社を参拝する。次大夫の故郷・駿河国富士郡小泉郷にある浅間大社が総本宮で霊峰富士山を御神体とするが、この社は末社である。
  「新用水掘定之事」によれば、浅間神社付近から取水しようとしたところ、小泉次大夫が神社で休息した時、ついうたた寝をすると夢枕に女神が現れ「ここは用水口としては悪い場所だ。この山の腰を巻くように迂回して、もっと遡った場所がよい」と告げられたという。浅間神社から亀甲山の地形は台地が崖状になって玉川に落ち込み、蛇行する玉川が崖下にぶつかっている場所です。

  これは150年後の宝暦年間(1751~1764)「新用水掘定之事」に記述された、後世のつくり話と言はれるが、あながち「嘘のつくり話」とは思えない。地理的・土木工事資料が整理されていない江戸初期では、次大夫が専門的に「この場所で取水することは不可能です」と科学的な理論で説明しても一般には難解で、まともに説得できなかった。
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  そこで次大夫は一計を案じ千両役者を演じた。取水口を求めて本殿にこもり、一心不乱に念じたところ、浅間神社の総本宮の祭神「木花之咲耶姫命」の御告げがあった・・・・と世田谷領の主だった名主・村役人を下沼部村の名主伝左衛門宅に集めて夢見を語った。

  その夢見をした帳本人が、富士山信仰の総本山・浅間大社の地元小泉郷の氏子で、かつ用水奉行の小泉次大夫様であれば万人が納得する。それで関係者すべてが素直に納得して、翌日からすいすいと世田谷領の奥深くまで測量・杭打工事が進んだのである。

  勿論、前もって井伊直政には、代官頭・伊奈忠次から入念な根回し工作があった。

  六郷用水は南北引分がある光明寺池から緩やかに上り、鵜ノ木から嶺の切通しを越えて、下沼部村に入り中原街道を横断して亀甲山の麓と玉川の間を通る。右側には武蔵野台地が迫り、嶺村で10m(標高)浅間神社から上沼部では20mとなる。上流から水を引くエネルギーの原理は引力である、従って11Kmもの上流から用水を引くとすれば、嶺切通しの地点では「7mも掘下げる必要がある」と次大夫は計算をした。
測量を終えた段階の「まとめ」    次大夫 60歳
  1. 六郷用水最大の難工事は「峯村切通し~亀甲山」の開削が問題である。硬い岩盤を最大7.5mも掘下げないと、和泉取水口(水位20m)から水を引くことができない。

  2. 次に喜多見村から和泉村の開削は、旧野川を挟んで東西に伸びる立川段丘を開削するので工事は日数がかかると予測した。
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  3. 次大夫は7年間の事前調査で ①嶺村切通しと、 ②世田谷領の岩戸村~和泉村の地盤調査に時間がかかるので、1日も早く、しかも慎重・綿密に難所の測量をしたいという焦りがあった。六郷領・南北引分の下流地域は事前調査でも一番問題が少ないので、実測日程を間引いた。あとは部下の一番弟子・石川吉久に一任したため公式記録が無い。

  4. 六郷領35ヶ村の内、記録に出てくるのは南掘4村、北掘4村、南北引分の上流2村のみである。南北ともに中程までで、下流は測量実績がない。日数も37日、川崎領23村が170日とは大差がある。六郷領下流地域は中世の古い堀を改修するだけでよい。

  5. 慶長3年12月5日、満2年の区切りの良い日程で測量を完了したのは作為的である。
    1. 初っ端から六郷領・下流域の測量を間引いて、全体の日程を調整した。
    2. 変則的な日程を実施できたのも、事前調査の下地を基に上塗りすればよかった。
    3. 秀吉の死亡(慶長3年8月)用水完成スケジュールの目途、家康・次大夫の年齢・寿命等の諸事情を勘案して、家康は事前に測量期間を2年間で終了するよう指示した。

  6. 工期は慶長2年~慶長16年までの14年間とあるが、実際には満6年の事前調査をふくめば、正味20年間の大事業であった。

  7. 両岸を交互に測量するという公平方針を実施しながら、二ヶ領側の内容は空白。
開削工事【慶長4年~16年】12年も要した。次大夫は61~73歳   
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女掘跡の小公園

  丸子橋左岸の堤防を南に下ると東急多摩川線の沼部駅があり、頭上を東海道新幹線・横須賀線が走っている。駅の東に「沼部の庚申さま」と呼ばれる蜜蔵院がある。門前を1m幅の小川が流れている。これが六郷用水の名残りである。流れに沿って東南へ歩くと、川の左側は10m以上の嶺村台地が続き、古墳が点在している。坂道を上がって左折した坂頂上の切通しが「女掘」跡である。観蔵院の下が小公園になっており、大田区が建てた「六郷用水」と「女掘」説明板がある。あとは緩い下り坂になり、光明寺を過ぎたら南北引分に至る。
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女掘 断面図

  嶺の切通しは一番高い所で7.5mも掘下げた。あいにくの硬い岩盤をツルハシで砕き、モッコで石を掻き揚げる。動員された人夫は重労働で気が荒れ、不平不満、喧嘩がたえず、工事が捗らなかった。
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  そこで次大夫は妙案を考えた。若い娘を雇い「陽気に振舞って男衆に愛嬌よくする様」によく言い含めた。すると男達は一気に和やかになり、それ以来工事が大いに進んだという。以来、男10人女1人を1組編成にして工事にあたらせ、順調に進捗するようになった。

  それでもこの僅か2.3Kmを開削するのに2年間、338日を要した。1日当り6.8mという難工事であった。世にこれを「女掘」と呼んだ伝説である。

  女掘より上流は「次大夫掘」と呼ばれた 

  慶長10年1月9日付で家康は次大夫に「人夫役黒印状」を与える。それは「武州六郷・稲毛いほり(用水)人足のこと、私領方へも高次第申し付け、うがつべきものなり」という人夫役の動員、および費用の分担が図られた。喜多見から取水口・和泉川原までは立川段丘を掘り進む難工事が続くため、必要な人夫役を確保するため家康に願い出て、御触書が発行されたのである。この区間だけで慶長9年10月から14年4月まで、足掛け5年も費やした難工事であった。

  人夫役黒印状には、「武州六郷・稲毛」と書いてあるが、目的は私領の世田谷領から人夫・費用を調達するためである。当時稲毛側の開削は至極順調で人夫の動員も順調であった。
  六郷用水は取水口から亀甲山までは一本で引かれており、世田谷領の村々では「次大夫掘」と呼ばれていた。他所者のみが恩恵に預かる用水だから「六郷用水」と呼びたくなかった庶民感情の表れである。「女掘」を経由して、南北引分からやっと目的の「六郷用水」と云う名前になる。
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Q 5 二ヶ領用水取水口は最初、宿河原~堰あたりに出来た。
この事実を隠蔽するために用水竣工後、記録が抹消された。
    【通説】 
  1. 最初に中野島取水口が造られた。新編武蔵風土記稿によれば、「村の西の方、布田の宿から入り、南の境を流れ、巽(南東)の方登戸村に達す。長さは5町、幅は6~7間、新田の用水なり」を根拠とする。

  2. 慶長16年(1611)二ヶ領用水・中野島取水口と六郷用水・和泉取水口が同時に竣工した。

  3. 新しい耕地が広がり水量の需要が高まり、もう一つ取水口が必要になった。
    【条件】 1. 対岸六郷用水取水口より下流。 2. 久地分量樋より上流。
    寛永6年(1629)関東郡代伊奈半十郎忠治の手代、筧助兵衛の手で二つ目の宿河原取水口が新説された。よって二ヶ領用水の竣工時の取水口は当然中野島取水口で間違いない。
  【慶長11年秋、宿河原~堰あたりに最初の取水口が造られた】・・・理由
  1. 六郷用水の工事が二ヶ領用水に比べて大幅に遅れていた。嶺村切通しに2年、喜多見村 から和泉取水口までは5年も要した。六郷側の目一杯のフル操業に対し、稲毛側は余裕綽綽、小杉・上小田中地域では幹線路・分水路も完成、取水口を造れば即時灌漑可能。慶長8年は稲毛164日/六郷182日。9年稲毛153日/六郷195日で、60日差なり。
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  2. 「MOTTAINAI」慶長11年には堰村~宿河原あたりまで開削が進んでいた。遅れている六郷に歩調を合わすのは二ヶ領側の努力がもったいない。すぐ近くの堰村(地名の由来)に中世から存在する水田の取水口を改修・拡幅すれば、手取り早く玉川の水を引ける。
      特に小杉・小田中・新城・宮内あたりは中世条理の東西南北に仕切られた水田が早くから存在していた、旧水路を拡幅・補修するだけで「稲毛田」が発展する。これらが引き金になり回りの村や、川崎領の村へと波及効果がある。得こそあれ誰も損をしない。
      一年でも早く水を補給すれば、直ちに米が稔り、村は栄え、暮らしが楽になる。
      「時間がもったいない」「水がもったいない」「出来上っている掘がもったいない」 

  3. 慶長8年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開き徳川政権が確立した。
      鷹狩りが大好きな家康は狩りを兼ねて小杉村の小泉陣屋を訪ね、仮設の取水口を造る相談をした。慶長11年家康65歳、次大夫68歳の高齢で、五体健全とはいえ人の寿命は定かでない。用水の竣工予定まであと5年もある。大御所が元気なうちに二ヶ領用水だけでも部分仕上げをご披露したかった。合理主義者の二人は公平よりも実利を選んだ。
      こうして宿河原・堰村あたりに最初の取水口が設置され、翌年春には取水が始まった。但し玉川両岸の用水取水工事は「交互に同時進行を建前とする」と発表したために、幕府は慶長16年3月1日をもって同時竣工したと公式発表した。二ヶ領用水の記録は抹消。

  4. 「宿河原掘を愛する会たより・09年秋号」のなかで中野島用水は昔からは新川と呼ばれていた」と言い切る。さらに「新川が造られたとき、近傍に比較対象となる用水が既に存在していたとみるのが自然」と指摘し、宿河原用水が既に存在した古川とみている。
    (神奈川新聞:2009.12.3 二ヶ領本川と新川 二ヶ領用水竣工400年プロジェクト長島保)
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  5. 「新用水掘定之事」の基となる「史料」の原文には、当然のこと二ヶ領用水側の測量・開削工事も六郷側と同様な記録がされていた。しかし二ヶ領用水が正式竣工の5年も前に先行して取水したことがバレルと代官頭:伊奈忠次、大久保十兵衛等(官僚)の権威が失墜するから、後日彼らの指図によって二ヶ領側の全記録が抹消され事実が隠蔽された。

  6.  多摩川絵図・今昔(表紙の絵図)第18図によれば宿河原村から堰村にかけて川筋が南に湾曲しており、二ヶ領せせらぎ館から稲田中学校あたりまでは島になっている。

  7. 国交省京浜河川事務所の多摩川管内図「浸水した場合に想定される水深」の図   面では最大ランクの5m以上の区域が前項⑥の絵図と合致する。従って、②項で述べた「堰村あたりにあった中世の取水口を改修して、仮取水口を設置」したのではないかと推察する。

  8. 「堰村」の地名は、江戸時代の少し前に玉川の水を引くために堰を設けたことから堰村と付けられたといわれている。(稲田の郷土史)

  9. 筧助兵衛が造った宿河原取水口は玉川の流路が北へ移動したため、前記②③項に基づいて造られた取水口が壊れたので、上流の現在位置へ移設した。
  おわりに

  川崎区宮前町の日蓮宗妙遠寺の山門を入るとすぐ左に大きな石碑がある。「泉田二君功徳碑銘」と彫ってある。泉田二君の泉は小泉次大夫、田は田中休愚をあらわす。二人の功績をたたえる記念碑で 地元では水恩の碑と呼ばれている。休愚は二ヶ領用水中興の祖で、二ヶ領用水開削百年後に上河原堰 や久地分量樋等の改修に貢献した。
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小泉次大夫夫妻の逆修塔

  その先、納経所の前に小泉次大夫の墓がある。敬虔な日蓮宗の信徒であった夫妻併置の逆修塔(五輪塔)で、その前に次大夫の胸像が座る。次大夫は用水竣工の翌年に御役御免を願い出て隠居した。その直後、家康の薨去にあたっては剃髪し、宗可と改名。隠居して11年後85歳の生涯を閉じた。逆修塔とは、生前にあらかじめ(逆)自分の墓を建て仏事を修めて死後の冥福を祈ること。
                                    
参考 【参考文献】
【著作】 金子忠司
  「川崎遍路を尋ね歩く」 (yahoo、Googleで「川崎遍路」を検索)
    http://kawasaki-guide.jp/henro/
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